Modernaを生んだ「工場」の次なる一手

“Flagship Pioneeringは2023年、人類史でもっとも重要な発明のひとつ、科学的方法そのものを作り直すためにLila Sciencesを設立した。どうやって。仮説から実験、そして解釈まで、AI自身が科学的方法を実行できる完全自律のラボを建てることによって。”

Flagship Pioneering創業者ヌーバー・アフェヤン(@NoubarAfeyan)2025年9月の投稿より(日本語訳)

Flagship Pioneering。この名前を知らなくても、その「作品」は世界中が知っている。mRNAワクチンで新型コロナウイルスに立ち向かったModernaは、Flagship Pioneeringが生み出した企業の一つだ。

Flagship Pioneeringは一般的なVCではない。自らが科学的仮説を立て、社内でスタートアップを創業する「ベンチャー創造ファーム」だ。投資先を「選ぶ」のではなく、ゼロから「作る」。この独自のモデルから、Modernaを含む100社以上の企業が誕生してきた。

そのFlagship Pioneeringが、2023年に社内で立ち上げ、2025年3月に公に披露したのが、Lila Sciencesだ。陣頭に立つのは、Flagship PioneeringのゼネラルパートナーでMIT博士のジョフリー・フォン・マルツァーン。生物学とAIを融合した企業をこれまで複数育て上げてきた人物が、次に掲げるミッションは壮大だ。「科学的超知能(Scientific Superintelligence)」を構築する

フォン・マルツァーンは1980年、テキサス州アーリントンで4代続くエンジニア家系に生まれた。8歳のときには寝たまま電灯のスイッチを操作できるプーリー(滑車)システムを自作した、というエピソードが伝わる。バージニア州のトーマス・ジェファーソン高校(科学技術専門の公立進学校)で科学への情熱を深め、MITで化学工学の学士号を取得。その後カリフォルニア大学サンディエゴ校(UC San Diego)で生体工学の修士号を経て、MITのハーバード-MITヘルスサイエンス&テクノロジー課程(Harvard–MIT Division of Health Sciences and Technology)で博士号を取得した(2010年)。指導教員はMITの電気工学・コンピュータ科学教授サンゲータ・バティア。博士課程では、がん細胞だけを選択的に破壊するナノ粒子療法の開発に取り組み、血流中で互いに通信して腫瘍を標的にする「通信型ナノ粒子」を世界で初めて発明した。この研究で2009年、MITの発明賞として知られるレメルソン-MIT学生賞(3万ドル)を受賞している。「科学の探索空間を広げること」に一貫してこだわってきたフォン・マルツァーンが、Flagship Pioneering参画(2009年)後にIndigo Agriculture(農業マイクロバイオーム)やGenerate:Biomedicines(AI創薬)など複数社を創業・CEOとして率いた経験を経て到達した問いが、Lila Sciencesの核心にある。「科学的発見のプロセス全体を、人間の限界から解き放つことはできるか」。

科学的超知能とは何か

“エージェントが、人間の専門家が「存在しえない」と言った触媒を発見した。実際に機能するまでは、そう言われていた。これが科学的超知能の姿だ。加速された科学が、いま起きている。”

Lila Sciences公式(@LilaSciences)2026年6月の投稿より(日本語訳)

「科学的超知能」は、SF映画に出てきそうな言葉だ。しかしLila Sciencesが目指しているのは、AGI(汎用人工知能)のような漠然とした概念ではない。彼らが構築するのは、科学的発見に特化した自律型AIシステムだ。

従来の創薬 vs Lila Sciences。プロセスの比較
従来の創薬
10年・20億ドル超
人間の研究者が仮説を立て、手動で実験。失敗率90%以上。1つの新薬の開発には10〜15年と20億ドル超の費用が必要とされる(Deloitte、2024年)
Lila Sciences
自律実験サイクル
AIが仮説を生成し、ロボットが実験を実行。結果をAIが解析し、次の実験を自動設計。24時間365日稼働

具体的なプロセスはこうだ。まずAIが膨大な科学論文、特許、実験データを解析し、有望な仮説を生成する。次に、自動化されたラボ(ロボティック・ラボラトリー)がその仮説を検証する実験を実行する。実験結果はリアルタイムでAIにフィードバックされ、AIは結果を解析して次の仮説を生成する。

この「仮説 → 実験 → 学習 → 次の仮説」というサイクルを、人間の介在なしに回し続ける。1日に数百回、数千回のサイクルを回すことで、人間の研究者が数年かけて到達する知見に、数週間で到達することを目指している。

5億5,000万ドル。バイオテック史上最大規模の資金調達

“Lila Sciencesは、人類が抱えるもっとも切迫した課題に応えるため、科学的超知能の未来を築いている。人の監督のもとで、LilaのAIサイエンス・ファクトリーは数千の実験を同時に走らせ、医療や創薬といった分野の進歩を押し進める。”

出資元ジェネラル・カタリスト(@generalcatalyst)2025年3月の投稿より(日本語訳)

Lila Sciencesは2025年3月の公表と同時にシード調達として2億ドル(約310億円)を確保し、同年9〜10月のシリーズAで3億5,000万ドル(約542億5,000万円)を追加調達した。累計調達額は5億5,000万ドル(約852億5,000万円)に達し、バイオテック業界で最大規模のシードラウンドとして広く注目された。企業評価額は13億ドル(約2,015億円)超。創業からわずか2年でユニコーンとなった。

5億5,000万ドル(852億5,000万円)
累計調達額(史上最大規模のシードを含む)
13億ドル超(2,015億円超)
企業評価額
Flagship
創業元(Modernaを生んだベンチャー創造ファーム)

なぜこれほどの巨額調達が可能だったのか。第一に、Flagship Pioneeringの実績だ。Modernaの成功は、同社の「非常識なアイデアを形にする力」を証明した。第二に、AI×バイオテックの融合領域が、投資家にとって最もホットなテーマだった。

しかし最も重要なのは、Lila Sciencesのビジョンが「単なるAI創薬」を超えていた点だ。AlphaFold(タンパク質構造予測)やIsomorphic Labs(Google DeepMind系列)など、AI創薬スタートアップは既に数多い。Lila Sciencesが異なるのは、「発見のプロセス全体」を自動化しようとしていることだ。特定の疾患や分子に限定せず、あらゆる科学的発見に応用可能なプラットフォームを目指している。

人間なしで回る実験サイクル

“「これから5年で、過去100年を上回る科学の進歩が起きようとしている」。科学的超知能を構築するなかで我々が見ているものの一端を紹介する。LilaのAIは、科学的推論のデータを10兆トークン以上蓄積してきた。”

Lila Sciences公式(@LilaSciences)2026年4月の投稿より(日本語訳)

Lila Sciencesの核心技術は、3つの要素で構成されている。

  • 1
    AI仮説生成エンジン数百万の論文・特許・実験データを学習したLLMが、未検証の科学的仮説を生成。人間のバイアスに囚われない発想を可能にする。
  • 2
    ロボティック・ラボラトリー自動化された実験室が、AIの指示に従って化学合成・細胞培養・アッセイを実行。人間の手作業に比べ、再現性が格段に高い。
  • 3
    クローズドループ学習実験結果がリアルタイムでAIにフィードバックされ、モデルが更新される。失敗した実験からも学び、次の仮説の精度を上げていく。

従来の創薬では、一人の研究者が年間で実行できる実験は数百程度だ。Lila Sciencesのシステムは、1日で数千の実験サイクルを回すことが可能だという。これは単なる「速さ」の問題ではない。探索空間の広さが根本的に変わる。

人間の研究者は、自分の専門分野の知識とバイアスに基づいて仮説を立てる。しかしAIは、分野を横断した知識の組み合わせから、人間が思いつかない仮説を生成できる。化学と遺伝学と材料科学の交差点にある発見を、人間の研究者が見つけるには偶然に頼るしかない。AIにはその制約がない。

ジョージ・チャーチと遺伝学の革命

Lila Sciencesの最高科学責任者(Chief Scientist)を務めるのが、ジョージ・チャーチだ。ハーバード大学医学大学院(Harvard Medical School)の遺伝学教授であり、ヒトゲノム計画の立ち上げに貢献した研究者の一人。CRISPR-Cas9をヒト細胞に応用することを実証した研究者の一人でもあり、合成生物学の父とも呼ばれる人物だ。

ジョージ・チャーチのLila Sciences参画は、同社の技術が「絵空事」ではないことを示している。彼は長年にわたり、実験の自動化と機械学習の融合を研究してきた。最高科学責任者としての参画は、この技術が科学的に実現可能であることを裏付ける

日本の創薬スタートアップへの示唆

日本は世界有数の製薬大国だ。武田薬品、アステラス、第一三共。グローバルに展開する製薬企業を多数抱えている。しかし、AI創薬の領域では明らかに出遅れている

Lila Sciencesのような「自律型AIラボ」の構想は、日本の強みと弱みの両方を浮き彫りにする。日本にはロボティクスの技術がある。精密機器の製造能力もある。理化学研究所(RIKEN)やスーパーコンピュータ「富岳」のような計算資源もある。しかし、それらを一つのシステムとして統合し、スタートアップとして高速に回す仕組みが欠けている

  • 1
    「ベンチャー創造ファーム」モデルの不在Flagship Pioneeringのように、自ら科学的仮説を立ててスタートアップを創る組織が日本にはほぼない。大学発VBの支援は増えているが、「創業する側」のVCは稀。
  • 2
    AI×バイオの融合人材の不足AI研究者と生物学者の両方を理解する人材が圧倒的に不足。分野横断型の教育・研究環境の整備が急務。
  • 3
    実験自動化インフラの可能性日本のロボティクス技術と精密機器技術は世界最高水準。ラボ自動化のハードウェアでは、日本企業がグローバルに貢献できる余地がある。

Lila Sciencesが示す未来は、科学者の仕事がなくなるということではない。むしろ、科学者の役割が「実験を手で行う者」から「AIに何を発見させるかを設計する者」へとシフトするということだ。この変化に適応できた国と企業が、次の10年の創薬を支配する。

起業家への示唆

“共同創業者兼CEOのジェフリー・フォン・マルツァーンがMITに戻り、2026年卒業生に語った。そのメッセージは「科学のもっとも面白い局面は、まだ始まってもいない」。だからこそ我々は、世界初の科学的超知能プラットフォームを作っている。”

Lila Sciences公式(@LilaSciences)2026年5月の投稿より(日本語訳)

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    「探索空間の拡大」こそが競争力になるフォン・マルツァーンが繰り返すように、科学的発見における競争力は「最も多くの実験を最も高い知性と速度で回す側」に集まる。創薬に限らず、意思決定や製品開発においても、試行回数と学習速度を設計の軸に置く発想が問われる時代になっている。
  • 2
    分野横断の経歴が、新カテゴリーを生むフォン・マルツァーンは化学工学・生体工学・バイオメディカル工学という3つの専門を積み上げ、農業(Indigo Agriculture)・タンパク質設計(Generate:Biomedicines)・自律科学(Lila Sciences)と領域を移しながら企業を生み出してきた。専門の「深さ」と同時に、隣接領域を跨ぐ「幅」が非連続なカテゴリーを切り開く原動力になる。
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    2年間のステルスで、出る前に証明するLila Sciencesは2023年の設立から2年近くを非公開で過ごし、ケンブリッジに最初のAIサイエンスファクトリーを立ち上げて複数ドメインでの発見実績を積んでから公表した。派手なビジョンほど、先に証拠を作る期間を設けることで資金調達の信頼性が格段に高まる。

※本文中の円換算は1ドル=155円で計算した参考値です。為替レートにより実際の金額は変動します。