人身傷害訴訟という巨大市場
アメリカでは毎年、数百万件の人身傷害訴訟が提起される。交通事故、労災、医療過誤、施設内での転倒など、日常生活のあらゆる場面で、人々は予期せぬ怪我に遭遇する。その多くが、法的な賠償請求へと発展する。
米国の人身傷害訴訟市場は年間約5,000億ドル(約77兆5,000億円)規模とされている。この巨大な市場を支えているのが、全米に約5万存在する人身傷害専門の法律事務所だ。成功報酬型で依頼を受け、被害者の代わりに保険会社と交渉する。
しかし、この市場にはある構造的な問題が存在していた。弁護士の時間の大部分が、法廷での弁論ではなく、書類作成に費やされているということだ。特に「デマンドレター」と呼ばれる賠償請求書の作成は、1件あたり数十時間を要することもある膨大な作業だった。
3人の創業者と原体験
EvenUp社は2019年、3人の共同創業者によって設立された。CEO のラミ・カラビバル、COO のレイモンド・ミェシャニエック、そして Chief of Product & Legal Operations のサーム・マシャード。3人の組み合わせが、EvenUpの強さを理解する鍵になる。
特にレイモンドの存在は重要だ。幼少期、父親が交通事故で永続的な障害を負った。移民家族として初めて司法システムと向き合うことになった一家は、数年に及ぶ訴訟の長期化と増え続ける費用に追い詰められ、早期に和解を選んだ。受け取った示談金は20万ドル(約3,100万円)以下にとどまり、その間、母親は家計を支えるために3つの仕事を掛け持ちした。後から判明したのは、正しいデータとリソースがあれば、賠償額は受け取った金額の2倍以上になり得たという事実だった。この出来事から20年以上が経った今も、同じ理不尽は全米で繰り返されている。「なぜ同じような案件でも結果にこれほどの差が生まれるのか」という問いが、EvenUpの出発点になった。
ラミはWaymoで自動運転に関わる事業開発を担う中、自動車事故にまつわる損害処理コストの膨大さを毎日のように目撃していた。世界最先端のテック企業の現場から法律業界を見渡したとき、この市場が持つ巨大な機会に気づいた。3人の役割分担は明確だった。使命感(レイモンドの原体験)、法律の専門知識(サームの弁護士経験)、データとAIの実装力(ラミのテック投資・事業開発経験)。こうして2019年末、3人はサンフランシスコで「Litty(リッティ)」という社名でスタートし、後にEvenUpへと改名した。
EvenUpが解決する課題
Smart personal injury litigation starts with strategy. That’s why top PI firms use EvenUp’s AI to surface key facts, build stronger arguments, and prep faster.
Ready to elevate your firm's trust and outcomes?
Join our exclusive interview on Aug 12th with @DamatoLawFirm &… pic.twitter.com/co1vY3mIDV
— EvenUp Law (@evenuplaw) 2025年7月23日
“賢い人身傷害訴訟は、戦略から始まる。だからこそ一流の人身傷害専門事務所は、EvenUpのAIを使って重要な事実を洗い出し、より強い主張を組み立て、準備を速く終える。”
EvenUp公式(@evenuplaw)2025年7月の投稿より(日本語訳)
EvenUpのコアプロダクトは、AIを活用した「デマンドレター」の自動生成だ。デマンドレターとは、人身傷害訴訟において被害者側の弁護士が保険会社に提出する賠償請求書のことで、医療記録、事故の経緯、損害の詳細、類似判例などを包括的にまとめた法律文書である。
EvenUpのAIは、数百万件の過去の訴訟データと医療記録を学習している。医療用語を理解し、怪我の重篤度を評価し、類似案件の賠償額を参照して、適切な請求額を算出する。弁護士はゼロから文書を書く代わりに、AIが生成したドラフトをレビューし、必要に応じて修正するだけでよい。
EvenUpが「弁護士を置き換える」ツールではなく「弁護士を強化する」ツールであることは、プロダクト設計の根幹にある。最終的な判断は常に弁護士が行う。AIは定型的で時間のかかる作業を引き受け、弁護士が本来の価値である戦略立案と依頼者対応に集中できる環境を作る。
EvenUpを導入した法律事務所では、平均賠償額が30%以上増加したという報告もある。AIが見落としがちな判例や医療記録の詳細を拾い上げ、より網羅的な請求書を作成できるためだ。弁護士の時間を節約するだけでなく、依頼者により良い結果をもたらしている。
6ラウンドで累計3億8,500万ドルの調達
We are delighted to collaborate with REV to invest in EvenUp, the leader in AI for personal injury law! Learn more about our participation in EvenUp’s latest funding round here: https://t.co/o4VdVdrAGI pic.twitter.com/U5jLZFkebH
— LexisNexis Legal & Professional (@LexisNexis) 2025年10月15日
“REVとともにEvenUpへ投資できることを喜んでいる。人身傷害法におけるAIの第一人者だ。今回のラウンドへの参加について詳しくはこちらから。”
出資元レクシスネクシス(@LexisNexis)2025年10月の投稿より(日本語訳)
EvenUpの資金調達の軌跡は、AI×リーガルテックへの市場の期待を如実に反映している。
- 1
2019年 創業ラミ、レイモンド、サームの3人がサンフランシスコで設立。人身傷害訴訟に特化したAIプラットフォームの開発を開始。
- 2
2021年 Series ASignalFireが主導。初期プロダクトの市場適合を確認。法律事務所からの強い引き合いが成長を後押し。
- 3
2023年6月 Series B(5,050万ドル)Bessemer Venture Partnersが主導。導入事務所数が急増し、ネットワーク効果が顕在化し始める。
- 4
2023年12月 Series C(3,500万ドル)Lightspeed Venture Partnersが主導。プロダクトラインの拡張とデータ蓄積が加速。
- 5
2024年10月 Series D(1億3,500万ドル)Bain Capital Venturesが主導。評価額が10億ドルを超えユニコーン入り。新製品4本を同時リリース。
- 6
2025年10月 Series E(1億5,000万ドル)Bessemer Venture Partnersが再び主導。評価額20億ドル超。累計調達額3億8,500万ドル。リーガルテック史上最大級の調達。
急成長の背景には、構造的な要因がある。EvenUpのビジネスモデルは「使えば使うほどデータが蓄積され、プロダクトが改善される」フライホイールを持っている。導入事務所が増えるほどデータが増え、AIの精度が向上し、さらに多くの事務所が導入する。
生成AIの進化もEvenUpに強烈な追い風となった。大規模言語モデルの発展は、法律文書の生成品質を飛躍的に向上させた。EvenUpは独自のファインチューニングとドメイン特化のデータパイプラインを構築しており、汎用AIでは到達できない精度を実現している。
リーガルテックの未来
EvenUpの成功は、リーガルテック業界全体に大きな影響を与えている。従来、法律業界はテクノロジーの導入が最も遅い業界の一つとされてきた。契約書のレビューすら手作業で行われ、判例の検索も非効率なままだった。
生成AIの登場がこの状況を根本的に変えようとしている。EvenUpが人身傷害訴訟で証明したモデルは、契約書レビュー、知的財産訴訟、M&Aデューデリジェンスなど、法律のあらゆる領域に適用可能だ。
日本の法律市場も例外ではない。日本には約4万4,000人の弁護士がおり、その多くが定型的な書類作成に膨大な時間を費やしている。交通事故の損害賠償請求、離婚調停の書類作成、債務整理の申立書など、日本の法律業務にも、AIによる効率化の余地は大きい。
日本のスタートアップが学べること
EvenUpの物語から、日本のスタートアップが学べる教訓は明確だ。
- 1
「規制産業 × AI」は最大の機会法律、医療、金融など、規制が厳しく、テクノロジー導入が遅れている産業こそ、AIによる効率化の余地が最も大きい。日本の士業(弁護士、税理士、司法書士、社会保険労務士)は合計30万人以上。この市場をAIで変革するスタートアップは、まだ十分に存在していない。
- 2
「ドメインエキスパート × テクノロジスト」のチーム設計EvenUpの強さは、テック・ビジネス系の経営人材と現役弁護士がチームにいることだ。テクノロジーだけでは不十分で、業界の深い知識がなければ本当に使われるプロダクトは作れない。日本でも、業界経験者とエンジニアの共同創業が成功の鍵になる。
- 3
「置き換え」ではなく「強化」のポジショニングEvenUpは「弁護士を不要にする」とは決して言わない。「弁護士をより強くする」と言う。規制産業でAIを導入する際、この姿勢は極めて重要だ。既存のプロフェッショナルを敵に回さず、味方にする。保守的な市場では特に有効な戦略だ。
日本の法律業界は、EvenUpが米国で発見したのと同じ構造的課題を抱えている。弁護士の業務時間の多くが書類作成に消え、依頼者と向き合う時間が限られている。交通事故の損害賠償、相続手続き、労働紛争など、定型的な法律文書の作成は、AIが最も得意とする領域だ。
評価額20億ドル(約3,100億円)超、累計調達3億8,500万ドル(約596億円)。EvenUpが証明したのは、「退屈な書類作成」を解決することが、数十億ドルのビジネスになり得るという事実だ。その本質は、テクノロジーの力で「専門家の時間を本来の仕事に戻す」ことにある。この発想は、日本のあらゆる士業に適用可能だ。
起業家への示唆
- 1
原体験のある課題に賭けるレイモンドが家族の訴訟体験から20年かけて気づいたように、当事者性のある課題は外部から発見した課題より参入障壁になる。「なぜ自分がこれを解かなければならないか」を語れる創業者は、困難な局面でも撤退しにくい。
- 2
専門家を敵ではなく最初のユーザーにするEvenUpは弁護士を代替するのではなく、弁護士の武器として設計した。規制産業や専門職市場では、現場のプロをプロダクトの共創者・伝道者に巻き込むことが、顧客獲得コストを下げ信頼を高める最速の道になる。
- 3
データの非対称性そのものをプロダクト化する保険会社が持つデータと弁護士が持つデータの格差こそがEvenUpの市場を生んだ。既存産業の中で「一方だけが持っている情報」を探し、それを平等化するツールを作ることは、参入障壁が高く切り替えコストも大きいビジネスにつながる。
※本文中の円換算は1ドル=155円で計算した参考値です。為替レートにより実際の金額は変動します。
READ NEXT
関連記事

兵器はコストが膨らむほど儲かる仕組みだった。自腹で作って売る流儀は、国防を変えられるのか
アメリカの防衛産業は、数十年にわたって同じ構造の中で動いてきた。Lockheed Martin、Raytheon、Northrop Grumman、Boeing、General Dynamics – いわゆる「Big 5」と呼ばれるレガシー防衛企業が、国防総省の予算の大部分を独占してきた。

監視カメラだけが、時代に取り残されていた。人が巻き戻して探す前に、AIが異常を知らせる
物理セキュリティの市場規模は$50Bを超える。オフィスビル、学校、病院、小売店舗 – あらゆる施設に監視カメラが設置されている。しかし、その大半は10年以上前のアーキテクチャで動いている。NVR(ネットワークビデオレコーダー)にローカル録画し、専用ソフトウェアでしか映像を確認できない。

探しても、欲しい情報は見つからない。社内資料検索の理想のツール。
企業の知識は、あらゆる場所に散らばっている。Slackのスレッド、Google Driveのドキュメント、Confluenceのページ、Jiraのチケット、Salesforceの商談メモ – 一つの質問に答えるために、複数のツールを横断して検索する日常が、世界中のオフィスで繰り返されている。
