130兆ドル市場の不都合な真実

2025年、世界の債券市場は130兆ドル(約2京150兆円)を超える規模に達している。株式市場の約100兆ドルを上回る、世界最大の金融市場だ。国債、社債、地方債、モーゲージ担保証券など、政府から企業まであらゆる組織がこの市場を通じて資金を調達している。

しかし、この巨大市場には信じがたい現実がある。取引の大部分が、いまだに電話とチャットで行われているのだ。

株式市場では電子取引が当たり前になって20年以上が経つ。ニューヨーク証券取引所のフロアでトレーダーが叫ぶ姿は過去のものとなり、アルゴリズムがミリ秒単位で売買を執行している。にもかかわらず、債券市場のトレーダーは今日もBloomberg端末のチャット画面を開き、ディーラーに電話をかけて価格を聞いている。

130兆ドル
世界の債券市場規模

~30%
電子取引の比率(ハイイールド債)

数百万
銘柄数(株式の数百倍)

Citadel Securities出身のクオンツたち

“オフィスからの眺め。ウォール街近くのオフィスで、スタートアップMomentのCEOディラン・パーカーに会った。Momentは、社債取引の多くの工程を自動化することで、この市場を作り替えようとしている。3年前に立ち上がり、すでに大手を顧客に迎えている。”

元ブルームバーグ テッド・マーツ(@TedMerz)2025年7月の投稿より(日本語訳)

Moment社の創業チームは、この問題を内側から知り尽くしている。中核を担うのは、世界最大級のマーケットメイカーであるCitadel Securities出身者だ。Citadel Securitiesは米国株式取引の約20〜25%を処理する金融テクノロジー企業であり、そのクオンツチームは業界最高峰の一つとされる。

CEOのディラン・パーカーとCPOのディーン・ハサウトは、ハーバード大学(Harvard University)で統計学とコンピュータサイエンスを学んだ後、Citadel Securitiesで債券の自動化クレジットデスク構築に携わった。COOのアマー・ソリマンはマッキンゼーのエンゲージメントマネジャーとして金融機関向けプロジェクトに関わり、2022年に3人で創業した。

パーカーが配属されたのは、Citadel Securitiesが社内に初めて立ち上げた固定収益の自動マーケットメイキングデスクだった。Citadelはライバルであるジェーン・ストリートに後れを取っており、ジェーン・ストリートで15年にわたり債券システム取引を率いたアニッシュ・カリヤットを招いてこのデスクを発足させた経緯がある。パーカーはハーバードを卒業するまで資本市場をほとんど知らなかった。Citadelに入社して現場を目にした最初の反応は「これほど非効率なはずがない」という純粋な驚きだった。大きなプレーヤーが解決していない問題が目の前にある。その疑問が頭から離れなかった。業界知識がなかったことが、むしろ先入観なく問題を捉える武器になったとパーカー自身は振り返る。彼はその後、週末ごとにマンハッタンのマディソン・スクエア・パーク(Madison Square Park)に足を運び、債券トレーダーのバイブルと称されるフランク・ファボッツィ(Frank Fabozzi)の固定収益ハンドブックを読み込んで実務知識を自力で積み上げた。

彼らがCitadelで目の当たりにしたのは、株式市場と債券市場のテクノロジー格差だった。株式ではアルゴリズムが瞬時に最適な価格を見つけ出すのに、債券では人間がExcelで価格を計算し、電話で交渉している。同じ「金融市場」でありながら、テクノロジーの成熟度に20年のギャップがある。パーカーとハサウトは2022年にCitadelを離れ、翌2023年1月にコードを書き始めた。シード調達では40社以上のVCに断られながらも、最終的にContrary Capitalからの出資を得て前に進んだ。Citadel出身のクオンツが持つ定量分析技術を債券市場全体に広める。個々のトレーダーにヘッジファンド級のツールを提供する。これがMomentのミッションだ。

取引・リサーチ・最適化の統合

“債券市場は好況だが、そのインフラは過去に取り残されている。世界最大級の金融市場に、初めて本物のオペレーティングシステムを作ろうとするMomentのシリーズB、3,600万ドルを主導できることを心から喜んでいる。”

主導投資家インデックス・ベンチャーズ(@IndexVentures)2025年7月の投稿より(日本語訳)

Momentのプロダクトは、債券トレーダーのワークフロー全体を一つのプラットフォームに統合する。従来、トレーダーは複数のシステムを行き来しながら仕事をしていた。リサーチにはBloomberg、取引にはTradeweb、ポートフォリオ管理にはExcelと、バラバラなシステムが並立し、データの一貫性もなかった。

Momentの統合プラットフォーム 3つの柱
01
取引執行
複数ディーラーからリアルタイムで最良価格を取得。アルゴリズムによる自動執行

+
02
リサーチ
AIが市場データ・ニュース・信用情報を統合分析。投資判断を支援

+
03
最適化
ポートフォリオのリスク・リターンを定量分析。リバランスを自動提案

特に注目すべきは、AIを活用したリサーチ機能だ。債券市場では、一つの企業が数十から数百の異なる債券を発行していることがある。満期日、クーポン利率、優先順位とそれぞれが異なる条件を持ち、価格に影響する変数は膨大だ。人間のアナリストがすべてを把握するのは現実的ではない。

Momentは、この複雑さをAIで解決する。数百万の債券銘柄のデータをリアルタイムで分析し、相対価値の歪みやリスクの変化を自動検出する。トレーダーはAIが提示するインサイトを基に、より迅速かつ正確な投資判断を下せるようになる。

a16zが最初に賭けた理由

2023年9月、Momentはa16z(Andreessen Horowitz)のリードで1,700万ドル(約26億3,500万円)のシリーズAを完了した。a16zはFacebook、GitHub、Coinbaseへの初期投資で知られるシリコンバレーを代表するVCであり、ゼネラルパートナーのデービッド・ヘイバーが自らボードに加わった。その後2025年7月にはIndex Venturesがリードする3,600万ドル(約55億8,000万円)のシリーズBを完了。さらに2026年5月にはIndex VenturesがリードするシリーズCで7,800万ドル(約121億円)を調達し、累計調達額は1億3,400万ドル(約208億円)に達した。

134M USD
累計調達額(シリーズCまで)

a16z
シリーズAリード投資家

130T USD
TAM(市場規模)

a16zがMomentに賭けた根拠は明確だ。130兆ドルという世界最大の金融市場が、テクノロジーの空白地帯として残っている。株式市場でRobinhoodやCoinbaseが変革を起こしたように、債券市場にも同様の変革が起きる余地があり、しかもはるかに大きな規模で。

  • 1
    市場規模の巨大さ130兆ドルの債券市場は、株式市場を超える。取引手数料の1ベーシスポイントでも、年間数十億ドルの収益機会がある。
  • 2
    テクノロジー浸透の低さハイイールド債の電子取引比率は約30%。残りの70%はまだ電話・チャットベースで、自動化の余地が大きい。
  • 3
    創業チームの専門性Citadel Securities出身のクオンツチームが、債券市場の複雑さを内側から理解している。
  • 4
    AIの適用可能性数百万銘柄の分析、価格予測、リスク最適化はAI・機械学習が最も威力を発揮する領域だ。

株式市場がアルゴリズム取引の普及によって流動性と透明性を劇的に高めたように、債券市場でも同様の変革が可能だという確信が、この投資の根底にある。

なぜ債券市場は変われなかったのか

ここで自然な疑問が生じる。なぜ、株式市場では20年前に実現した電子化が、債券市場ではいまだに進んでいないのか。答えは、債券市場の構造的な複雑さにある。

株式 vs 債券 なぜ債券の電子化は難しいのか
銘柄数の違い
Appleの株式は1銘柄。しかしAppleの債券は50以上。満期、利率、通貨が異なる。世界全体で数百万銘柄が存在する。

取引所の不在
株式には証券取引所がある。債券は基本的にOTC(店頭取引)。ディーラーとの1対1交渉が中心。

流動性の偏り
新発債は活発に取引されるが、既発債の多くは「買って持つ」。取引頻度が低く、価格の透明性も低い。

株式市場は「取引所」という集中的な場があり、すべての注文が一か所に集まる。だから電子化が容易だった。しかし、債券市場はディーラーのネットワークで構成される分散市場だ。価格は公開されておらず、取引はディーラーとの相対交渉で決まる。この構造が、電子化を阻んできた最大の要因だ。

Momentは、この構造的問題に正面から取り組んでいる。複数のディーラーとリアルタイムで接続し、価格を集約し、最良執行を自動で実現する。ディーラーネットワークという既存の構造を壊すのではなく、その上に知能のレイヤーを重ねるアプローチだ。

日本の債券市場への示唆

日本は世界有数の政府債券市場を持つ。日本国債(JGB)の発行残高だけで1,000兆円を超え、社債市場も拡大を続けている。しかし、日本の債券市場も電子化の遅れという点では例外ではない。

  • 1
    日本国債市場のデジタル化JGB市場は流動性が高いが、取引の多くは依然としてディーラー間の相対取引。AIによる価格発見と自動執行の余地は大きい。
  • 2
    社債市場の透明性向上日本の社債市場は米国に比べて規模が小さく、流動性も低い。Momentのような統合プラットフォームが、市場の透明性と流動性を改善できる可能性がある。
  • 3
    フィンテック人材の必要性Citadel Securities出身のクオンツが創業するMomentのようなスタートアップは、日本ではまだ生まれにくい。金融とテクノロジーの両方を深く理解する人材の育成が課題だ。

Momentの挑戦は、「古くて巨大な市場ほど、テクノロジーによる改善の余地が大きい」という事実を示している。130兆ドルの市場が電話で動いているという現実は、裏を返せば、テクノロジーで解決すべき巨大な非効率が世界中に残っていることの証拠だ。

日本の金融市場にも、同様の非効率はあちこちに潜んでいる。保険、不動産、融資と、いずれも巨大な市場でありながら、テクノロジーの浸透が不十分な領域だ。Momentのようなスタートアップが示すのは、既存の巨大市場をテクノロジーで「アップグレード」するアプローチが、最もスケーラブルな事業モデルになり得るということだ。

起業家への示唆

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    「知らない」は武器になるパーカーは債券市場の知識ゼロでCitadelに入り、だからこそ「なぜ誰もこれを解決しないのか」と素直に驚けた。業界の常識を知らないことが、既存プレーヤーが見過ごしてきた非効率を鮮明に映す。
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    巨大市場の非効率ほど、勝ちパターンは大きい130兆ドル規模の債券市場が電話で動いているという事実は、裏を返せばテクノロジーの余白が株式市場を上回る規模で残っているということだ。「古くて大きい市場」に飛び込む起業家ほど、競合の少ない大きなチャンスと向き合える。
  • 3
    40社に断られてからが本番MomentはシードラウンドでVCに40社以上断られ、最終的にContrary Capitalの出資を得た。「理解されない市場」ほど、最初の投資家を見つけるのに時間がかかる。しかし理解されにくいほど、参入障壁も高い。

※本文中の円換算は1ドル=155円で計算した参考値です。為替レートにより実際の金額は変動します。

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