Modernaを生んだ「工場」の次なる一手
Flagship Pioneering。この名前を知らなくても、その「作品」は世界中が知っている。mRNAワクチンで新型コロナウイルスに立ち向かったModernaは、Flagship Pioneeringが生み出した企業の一つだ。
Flagship Pioneeringは一般的なVCではない。自らが科学的仮説を立て、社内でスタートアップを創業する「ベンチャー創造ファーム」だ。投資先を「選ぶ」のではなく、ゼロから「作る」。この独自のモデルから、Modernaを含む100社以上の企業が誕生してきた。
そのFlagship Pioneeringが、2024年に最も野心的なプロジェクトとして世に送り出したのが、Lila Sciencesだ。ミッションは壮大そのもの。「科学的超知能(Scientific Superintelligence)」を構築する。
科学的超知能とは何か
公開情報によると、「科学的超知能」は、SF映画に出てきそうな言葉だ。しかしLila Sciencesが目指しているのは、AGI(汎用人工知能)のような漠然とした概念ではない。彼らが構築するのは、科学的発見に特化した自律型AIシステムだ。
具体的なプロセスはこうだ。まずAIが膨大な科学論文、特許、実験データを解析し、有望な仮説を生成する。次に、自動化されたラボ(ロボティック・ラボラトリー)がその仮説を検証する実験を実行する。実験結果はリアルタイムでAIにフィードバックされ、AIは結果を解析して次の仮説を生成する。
この「仮説 → 実験 → 学習 → 次の仮説」というサイクルを、人間の介在なしに回し続ける。1日に数百回、数千回のサイクルを回すことで、人間の研究者が数年かけて到達する知見に、数週間で到達することを目指している。
$550M。バイオテック史上最大のシード
2024年、Lila Sciencesは$550M(約825億円)を調達した。これはバイオテック業界史上、最大規模のシードラウンドとされている。企業評価額は$1.3B(約1,950億円)。創業からわずか1年でユニコーンとなった。
なぜこれほどの巨額調達が可能だったのか。第一に、Flagship Pioneeringの実績だ。Modernaの成功は、同社の「非常識なアイデアを形にする力」を証明した。第二に、AI × バイオテックの融合領域が、投資家にとって最もホットなテーマだった。
しかし最も重要なのは、Lila Sciencesのビジョンが「単なるAI創薬」を超えていた点だ。AlphaFold(タンパク質構造予測)やIsomorphic Labs(Google DeepMind系列)など、AI創薬スタートアップは既に数多い。Lila Sciencesが異なるのは、「発見のプロセス全体」を自動化しようとしていることだ。特定の疾患や分子に限定せず、あらゆる科学的発見に応用可能なプラットフォームを目指している。
人間なしで回る実験サイクル
Lila Sciencesの核心技術は、3つの要素で構成されている。
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AI仮説生成エンジン数百万の論文・特許・実験データを学習したLLMが、未検証の科学的仮説を生成。人間のバイアスに囚われない発想を可能にする。
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ロボティック・ラボラトリー自動化された実験室が、AIの指示に従って化学合成・細胞培養・アッセイを実行。人間の手作業に比べ、再現性が格段に高い。
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クローズドループ学習実験結果がリアルタイムでAIにフィードバックされ、モデルが更新される。失敗した実験からも学び、次の仮説の精度を上げていく。
従来の創薬では、一人の研究者が年間で実行できる実験は数百程度だ。Lila Sciencesのシステムは、1日で数千の実験サイクルを回すことが可能だという。これは単なる「速さ」の問題ではない。探索空間の広さが根本的に変わる。
人間の研究者は、自分の専門分野の知識とバイアスに基づいて仮説を立てる。しかしAIは、分野を横断した知識の組み合わせから、人間が思いつかない仮説を生成できる。化学と遺伝学と材料科学の交差点にある発見を、人間の研究者が見つけるには偶然に頼るしかない。AIにはその制約がない。
George Churchと遺伝学の革命
Lila Sciencesの科学諮問委員会には、George Churchが参画している。ハーバード大学の遺伝学教授であり、ヒトゲノム計画の創始者の一人。CRISPR技術の先駆者でもあり、合成生物学の父とも呼ばれる人物だ。
George Churchの参画は、Lila Sciencesの技術が「絵空事」ではないことを示している。彼は長年にわたり、実験の自動化と機械学習の融合を研究してきた。彼の参画は、この技術が科学的に実現可能であることの「お墨付き」だ。
日本の創薬スタートアップへの示唆
日本は世界有数の製薬大国だ。武田薬品、アステラス、第一三共。グローバルに展開する製薬企業を多数抱えている。しかし、AI創薬の領域では明らかに出遅れている。
Lila Sciencesのような「自律型AIラボ」の構想は、日本の強みと弱みの両方を浮き彫りにする。日本にはロボティクスの技術がある。精密機器の製造能力もある。理化学研究所(RIKEN)やスーパーコンピュータ「富岳」のような計算資源もある。しかし、それらを一つのシステムとして統合し、スタートアップとして高速に回す仕組みが欠けている。
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「ベンチャー創造ファーム」モデルの不在Flagship Pioneeringのように、自ら科学的仮説を立ててスタートアップを創る組織が日本にはほぼない。大学発VBの支援は増えているが、「創業する側」のVCは稀。
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AI × バイオの融合人材の不足AI研究者と生物学者の両方を理解する人材が圧倒的に不足。分野横断型の教育・研究環境の整備が急務。
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実験自動化インフラの可能性日本のロボティクス技術と精密機器技術は世界最高水準。ラボ自動化のハードウェアでは、日本企業がグローバルに貢献できる余地がある。
Lila Sciencesが示す未来は、科学者の仕事がなくなるということではない。むしろ、科学者の役割が「実験を手で行う者」から「AIに何を発見させるかを設計する者」へとシフトするということだ。この変化に適応できた国と企業が、次の10年の創薬を支配する。
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