メールが最大の攻撃経路である現実

“ファイル共有を装ったフィッシング攻撃が増えている。その増加率は350%だ。2024年下半期のメール脅威レポートでは、この他のファイル共有型フィッシングの調査結果や、ビジネスメール詐欺(BEC)と取引先詐称(VEC)の最新傾向も紹介している。”

Abnormal AI公式(@Abnormal)2024年8月の投稿より(日本語訳)

サイバーセキュリティの世界には、意外な事実がある。最も洗練された攻撃の大半は、最も古いコミュニケーションツールであるメールから始まるということだ。FBIのInternet Crime Complaint Centerによれば、ビジネスメール詐欺(BEC)による被害額は年間数十億ドルに達する。

フィッシングメールは年々巧妙化している。かつてのナイジェリアの王子からの送金依頼とは異なり、現代の攻撃はCEOや取引先を精巧に模倣し、社内の意思決定プロセスを熟知した上で仕掛けられる。AIがテキストを生成する時代、攻撃者のメールは文法的にも内容的にも精度が上がった。

Abnormal AI(旧Abnormal Security)は、このメールセキュリティという古くて巨大な課題に、まったく新しいアプローチで挑んでいる。2018年の創業から8年。2億5,000万ドル(約387億5,000万円)のSeries Dを調達し、企業評価額は51億ドル(約7,905億円)に到達した。Fortune 500の20%以上が顧客という数字が、このスタートアップの影響力を物語る。

従来型セキュリティの限界

従来のメールセキュリティは、大きく分けて2つのアプローチに依存してきた。シグネチャベース(既知の攻撃パターンとの照合)と、サンドボックス(添付ファイルを仮想環境で実行して検査する)だ。ProofpointやMimecastといった企業がこの領域で大きなシェアを持っている。

従来型 vs Abnormal AI、検知アプローチの違い
従来型
ルール&シグネチャ
既知の攻撃パターンをデータベースで照合。新しい攻撃手法や、テキストのみのBEC攻撃には対応困難
vs
Abnormal AI
行動AI
組織内のコミュニケーションパターンを学習し、「普通でない」行動を検知。未知の攻撃にも対応

しかし、これらの手法には根本的な限界がある。テキストだけで構成されたBEC攻撃、例えばCEOを装って「至急この口座に送金してほしい」というメールには、マルウェアも悪意あるURLも含まれていない。シグネチャで検知できる「悪意の痕跡」がそもそも存在しないのだ。

さらに、生成AIの普及がこの問題を加速させている。ChatGPTやClaudeを使えば、完璧なビジネスメールを数秒で作成できる。攻撃者はターゲット企業の公開情報を収集し、AIでパーソナライズされた攻撃メールを大量生産できるようになった。従来の防御手法は、この新時代の脅威に追いつけなくなっている。

行動AIという新しいアプローチ

Abnormal AIのアプローチは、根本的に異なる。メールの「中身」を検査するのではなく、メールを送受信する「人間の行動パターン」を学習し、そこからの逸脱を検知する。

具体的には、Abnormal AIは組織内のすべてのメールコミュニケーションを分析し、各従業員の「行動プロファイル」を構築する。誰が誰に、いつ、どんなトーンで、どんな種類の依頼をするか。送金承認のフローはどうなっているか。普段使わない表現やフレーズは何か。このプロファイルが、異常検知のベースラインになる。

Abnormal AIの行動AI、検知の仕組み
Step 1、学習
Microsoft 365やGoogle Workspaceに接続し、組織内の全コミュニケーションパターンを機械学習で分析。数万のシグナルを抽出。
Step 2、プロファイリング
従業員ごと・取引先ごとに行動プロファイルを構築。通常のやりとりの「型」を深く理解する。
Step 3、異常検知
新着メールをリアルタイムで分析し、行動プロファイルからの逸脱度をスコアリング。高リスクのメールを自動隔離。

例えば、CFOが経理チームに送金を指示するメールが届いたとする。従来のセキュリティツールは、送信元ドメインやリンクの安全性を確認して「問題なし」と判定する。しかし、Abnormal AIは「このCFOは通常、送金指示をSlackで行う」「このメールの文体は普段と微妙に異なる」「この時間帯にメールを送ることは稀だ」といった、人間では気づきにくい微細な異常を検出できる。

2度の起業、異なるフィールド

“Simply CyberのCybersecurity Mentors Podcastに出演した。メールセキュリティの進化、自分のキャリアから学んだこと、そしてサイバーセキュリティの未来でAIが果たす役割の予測について話した(少しSFの話でも盛り上がった)。”

共同創業者兼CEOエヴァン・ライザー(@evanreiser)2025年8月の投稿より(日本語訳)

Abnormal AIのCEO、エヴァン・ライザーは、連続起業家だ。ライザーポリテクニック・インスティテュート(Rensselaer Polytechnic Institute)でコンピュータシステム工学を学び、卒業後はEastman Kodakの研究開発部門で機械学習の応用研究に従事した。その後、Bloomspot(JPMorgan Chaseに買収)、AdStack(TellApartに買収)を経て、TwitterのECパーソナライゼーション技術部門でプロダクト管理と機械学習チームを率いた。TellApartはECサイトのパーソナライゼーションを手がけるAI企業で、2015年にTwitterに約5億3,200万ドル(約824億円)で買収されている。ライザーがTwitterで積み上げた技術、すなわち大量の行動データからパターンを抽出し、個別の予測を行うAIが、Abnormal AIの基盤となっている。

ライザーが手がけた転換はシンプルだ。TellApart時代には「この人は何を買いそうか」を予測していた。Abnormal AIでは「このメールは本当にこの人が書いたものか」を予測する。技術の本質は共通している。行動パターンの学習と異常検知だ。適用先がECからセキュリティに変わっただけだった。

共同創業者のサンジェイ・ジャイヤクマーも、同様の経歴を持つ。カリフォルニア大学バークレー校(UC Berkeley)で電気工学・コンピュータ科学の学士を、スタンフォード大学(Stanford University)でコンピュータ科学の修士を取得後、Googleで次世代検索技術の開発とAndroid黎明期のエンジニアリングを担当した。その後2009年にTellApartへ創業エンジニアとして参画。ライザーのAdStackがTellApartに買収された2013年、2人は初めて同じ組織で働くことになり、以来TellApartからTwitterを通じて5年以上、行動分析システムの設計と機械学習基盤の構築を共にしてきた。現在はAbnormal AIのCTOとして技術開発を統括している。

2018年にGreylockのオフィスでAbnormal AIを立ち上げた当初、2人が定めた着想は「金融詐欺検知で使われてきた行動プロファイリングを、メールセキュリティに転用する」ことだった。確信を深めたのは、Greylockの仲介で実施した50社以上のFortune 500のCIOとCISOへのヒアリングだ。ほぼ全員が、ルールベースのツールでは防げないアカウント乗っ取りや経営幹部のなりすまし詐欺に頭を抱えていた。「同じ課題が繰り返し出てきた」、この市場検証が、2人をメールセキュリティへと向かわせた直接の契機だった。

2018年
創業
51億ドル
企業評価額
20%超
Fortune 500の顧客率

2回目の起業で大きかったのは、「最初の信頼」を得るスピードだ。TellApartの成功とTwitterへの売却実績は、VCからの資金調達だけでなく、初期顧客の獲得にも大きく貢献した。連続起業家が持つ最大の資産は、技術でも資金でもなく、信頼のネットワークだ。

51億ドル評価への急成長

Abnormal AIの成長カーブは、エンタープライズSaaSとしては驚異的だ。

  • 1
    2019年:Series A、2,400万ドルライザーとジャイヤクマーが共同創業。Greylock PartnersがSeries Aをリード。同社はGreylockのオフィス内でインキュベーションされた。
  • 2
    2022年:Series C、2億1,000万ドル企業評価額40億ドル。Insight PartnersがリードしGreylockとMenlo Venturesが参加。Fortune 500企業への導入が加速し、行動AIの有効性が市場で認知され始める。
  • 3
    2024年:Series D、2億5,000万ドル企業評価額51億ドル。Wellington Managementがリード。ARRは2億ドルを突破し、100%超の前年比成長率を維持。
  • 4
    2025年:プラットフォーム拡張、社名変更メール以外にもSlack、Teams、Zoomなどのコミュニケーションプラットフォーム全体へ行動AIを展開。4月にはAbnormal AIへ社名を変更し、AI企業としての立ち位置を明確にした。

注目すべきは、Abnormal AIの顧客獲得戦略だ。Microsoft 365やGoogle WorkspaceへのAPI統合により、導入に数分しかかからない。従来のメールセキュリティ製品がMXレコードの変更やメールフローの再構成を必要としたのに対し、Abnormal AIはAPIで接続するだけだ。この「ゼロ摩擦」の導入体験が、エンタープライズの意思決定を劇的に加速させた。

さらに、Abnormal AIは「Time to Value」、つまり導入から価値を実感するまでの時間を極限まで短縮している。接続後すぐに過去のメールを分析し、既に見逃されていた脅威を検出して見せる。「すでに侵入されていた」という事実を突きつけることで、POC(概念実証)から本契約への転換率を高めているのだ。

日本のスタートアップが学べること

Abnormal AIの物語から、日本のスタートアップが学べることは多い。

  • 1
    「前の会社の技術」を別の市場に適用するライザーはAdStack・TellApartで培った行動AI技術をセキュリティに転用した。ある領域で磨いた技術を別の領域に応用する「技術転用型起業」には大きな可能性がある。
  • 2
    導入障壁の低さは最大の差別化になるAPI統合で数分で導入可能、という体験は、エンタープライズセールスの常識を変えた。日本のB2B SaaSも、「トライアルの開始にIT部門の承認が必要」という壁をどう取り除くかが成長の鍵だ。
  • 3
    既存の巨人の「盲点」を突くProofpointやMimecastが見逃していたのは、「ルールで検知できない攻撃」だった。日本の市場でも、大手ベンダーの製品が構造的に対応できない課題は必ず存在する。

Abnormal AIが証明したのは、「同じデータを、違う角度から見るだけで、巨大な市場が生まれる」という事実だ。メールの中身を見るのではなく、メールを送る人間の行動を見る。この視点の転換が、51億ドル(約7,905億円)の企業を生んだ。

日本企業のメールセキュリティへの投資は、グローバルと比較するとまだ発展途上だ。しかし、ランサムウェア被害の増加や、生成AIを使った高度なフィッシング攻撃の出現は、この市場を急速に広げている。行動AIという新しいパラダイムは、日本のセキュリティスタートアップにとっても大きな示唆を与えてくれるだろう。

起業家への示唆

  • 1
    前職の技術を別ドメインに転用するライザーとジャイヤクマーは、ECパーソナライゼーションで鍛えた行動プロファイリングをそのままセキュリティに持ち込んだ。「業界経験のなさ」は弱点ではなく、既存プレイヤーが持ち込まなかった技術視点を持てる強みになる。
  • 2
    市場検証は顧客の言葉で、大量に50社以上のCIO・CISOへのヒアリングで「同じ課題が繰り返し出てきた」と確信した後に開発を本格化させた。自分の仮説を確かめるのではなく、同じ痛みが何度も語られるまでヒアリングを重ねることが、参入市場の選択を狂わなくさせる。
  • 3
    導入摩擦をゼロに近づけることがエンタープライズ営業の武器になるAbnormal AIはAPIで数分で繋がる設計にすることで、POCから本契約への転換を劇的に早めた。大企業向けプロダクトは「機能の豊富さ」より「試すコストの低さ」が商談を動かすことが多い。

※本文中の円換算は1ドル=155円で計算した参考値です。為替レートにより実際の金額は変動します。