ハーバードを辞めた3人の21歳
2023年、ハーバード大学のキャンパスで、3人の学生が人生を賭けた決断を下した。Brendan Foody、Adarsh Hiremath、Surya Midha。いずれも21歳。彼らは学位を捨て、シリコンバレーへ向かった。「AIが人間の仕事を奪う」と世界中が騒いでいた、まさにそのタイミングで。
公開情報によると、
3人はPeter Thielが運営するThiel Fellowshipの採択者だった。Thiel Fellowshipとは、「大学を辞めてスタートアップを始める若者」に10万ドルを渡すプログラムだ。DropboxのDrew Houston、FigmaのDylan Fieldなど、テック業界の伝説的な創業者たちを輩出してきた。
Mercorの始まりは、シンプルな課題認識だった。AIの急速な進化にもかかわらず、企業が「本当に優秀な人材」を見つけるプロセスは驚くほど旧態依然としていた。履歴書を読み、面接を繰り返し、直感で採否を決める。この非効率を、AI自身が解決できないのか。それがMercorの出発点だった。
3人はそれぞれ異なる強みを持っていた。FoodyはCS(コンピュータサイエンス)と哲学のダブルメジャー。Hiremathは高校時代からAI研究に没頭し、複数の論文を発表。Middelkoopはオランダ出身で、グローバルな視点とビジネス開発の才能を持っていた。この多様性が、Mercorの急成長の礎となる。
AI採用からAI訓練へのピボット
Mercorは当初、AIを使った採用マッチングプラットフォームとしてスタートした。企業が求める人材像をAIが理解し、最適な候補者を自動でマッチングする。履歴書のスクリーニング、スキル評価、面接のスケジューリングまでをAIが一気通貫で処理するサービスだ。
しかし、創業から数か月後、彼らは決定的な気づきを得る。AIの進化そのものが、人間の専門知識を大量に必要としていたのだ。
OpenAI、Anthropic、Googleといった企業は、大規模言語モデルの精度を上げるために、膨大な量の「人間によるフィードバック」を必要としていた。医師、弁護士、エンジニア、数学者 — 各分野の専門家がAIの出力を評価し、修正し、より良い回答を教え込む。RLHF(Reinforcement Learning from Human Feedback)と呼ばれるこのプロセスは、AIの性能を決定づける最も重要な工程の一つだ。
Mercorはここに巨大な市場を見出した。世界中の専門家とAI企業を繋ぎ、「人間の知識をAIに変換する」マーケットプレイス。これがMercorの新たなミッションとなった。
$485M調達、$10B評価の裏側
Mercorの資金調達のスピードは、シリコンバレーの歴史においても異例中の異例だ。創業からわずか2年足らずで、累計$485M以上を調達。評価額は$10B(約1兆5,000億円)に到達した。
リードインベスターにはBenchmark、Felicis Ventures、General Catalystなど、シリコンバレーのトップティアVCが名を連ねる。さらにPeter Thiel本人も投資に参加している。21歳の大学中退者3人に$10Bの評価がつく — この事実だけで、AI市場の過熱ぶりが伝わるだろう。
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2023年 — 創業・シードThiel Fellowship採択。AI採用プラットフォームとしてスタート。初期投資を獲得。
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2024年前半 — ピボットAI訓練用人材マーケットプレイスへ転換。OpenAIとの契約を獲得し、急成長の起爆剤に。
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2024年後半 — シリーズA・BBenchmark、Felicis主導で大型調達。評価額が急騰。
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2025年 — $10B評価累計$485M+調達。世界中の専門家ネットワークが拡大し、AI業界のインフラに。
しかし、この急成長には懐疑的な声もある。「21歳の若者が$10Bの会社を経営できるのか」「AI訓練データの需要はいつまで続くのか」。こうした疑問に対して、Mercorの創業者たちは明快に答えている。「AIが進化すればするほど、人間の専門知識の価値は上がる。AIは人間を不要にするのではなく、人間の知識をより高く買うようになる」。
OpenAIとAnthropicが顧客になった理由
Mercorの顧客リストには、AI業界の最前線にいる企業が並ぶ。OpenAI、Anthropic、そしてその他の主要なAIラボ。なぜ、これらの企業はMercorを選んだのか。
答えはシンプルだ。AIモデルの訓練には、「正しい専門家」を「正しいタイミング」で「大量に」確保する必要がある。医療AIの精度を上げるには現役の医師が必要だし、法律AIには弁護士が不可欠だ。しかし、世界中から数千人規模の専門家を短期間で集め、品質を管理し、報酬を支払うのは途方もなく大変な作業だ。
Mercorはこの複雑なオペレーションを一気通貫で提供する。専門家の募集、スキル評価、タスクの割り当て、品質管理、報酬支払い — すべてをプラットフォーム上で完結させる。AI企業にとっては、Mercorに依頼するだけで「人間のフィードバック」というAI訓練の最も面倒な部分が解決する。
人間の専門知識がAIを育てる
Mercorのビジネスモデルが示しているのは、AI時代における「人間の価値」の再定義だ。多くの人が「AIに仕事を奪われる」と恐れているが、Mercorの成長はまったく逆のストーリーを語っている。
AIが高度になればなるほど、それを訓練する人間にも高度な専門性が求められる。初期のAI訓練では、簡単なラベル付け作業が中心だった。「この画像は猫か犬か」といったタスクだ。しかし、GPT-4やClaudeのような最先端モデルの訓練には、博士号レベルの知識を持つ専門家が不可欠になっている。
Mercorのプラットフォームには、世界中から数万人の専門家が登録している。医師、弁護士、数学者、プログラマー、物理学者、言語学者 — あらゆる分野の専門家が、AIの訓練に参加している。彼らにとっても、自分の専門知識を活かしてAIの進化に貢献しながら報酬を得られるのは魅力的な機会だ。
この構造は、ギグエコノミーの新しい形とも言える。UberやDoorDashが「運転」や「配達」という物理的な労働をマーケットプレイス化したように、Mercorは「知識」と「専門性」をマーケットプレイス化した。違いは、Mercorの場合、報酬がはるかに高いことだ。専門家への時給は$50から$200以上にもなる。
日本のスタートアップが学べること
Mercorの物語から、日本のスタートアップが学べることは少なくない。
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ピボットを恐れない勇気Mercorは「AI採用」から「AI訓練用人材マーケットプレイス」へと大胆にピボットした。最初のアイデアに固執せず、市場のシグナルに素早く反応する。この柔軟性が$10Bの評価を生んだ。
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AIの「裏側」にビジネスチャンスがあるAIモデルそのものを作るのではなく、AIモデルを「育てる」インフラを提供する。ゴールドラッシュでスコップを売る戦略は、日本企業にも応用可能だ。
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若さは弱みではなく武器になる21歳の大学中退者が$10Bの会社を作れる時代。日本でも、若い起業家がもっと大胆に挑戦できる環境が必要だ。
特に注目すべきは、Mercorが証明した「AIと人間は対立関係ではなく、共生関係にある」という事実だ。AIが人間の仕事を奪うのではなく、AIの進化が人間の専門知識の市場価値を高める。この視点は、AI時代を不安に感じている多くの日本の専門家にとって、希望のメッセージとなるだろう。
Mercorの3人の創業者は、まだ23歳だ。彼らの物語はまだ始まったばかりだが、すでにAI産業の根幹を支えるインフラとなりつつある。人間の知識がAIを育て、AIが人間の知識の価値を高める — このポジティブなサイクルを回す仕組みを作ったことが、Mercorの最大の功績かもしれない。
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